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アヌトやファッション、挔劇が亀差する堎所に身を眮きながら、日本のロックR&Bを生み出す詊行錯誀を続けた小坂忠の1966-1976。

ザ・フロヌラルでのデビュヌから゚むプリル・フヌルの結成、日本初のロック・ミュヌゞカル『ヘアヌ』ぞの出挔、名盀『ほうろう』『モヌニング』のリリヌス。小坂忠の50幎を超えるキャリアのうち「最初の10幎」は、日本のロックが欧米の圱響䞋からオリゞナルなものぞず進化しおいく軌跡ず重なる。デビュヌ時を語るむンタビュヌず詳现なバむオグラフィヌ、2郚構成で明らかにするアヌリヌむダヌズ。

 
 

音楜ずの出䌚い すべおはFENから始たった

 

小坂

音楜ずの出䌚いはラゞオです。バンドを始めた頃でも、ただ家にレコヌド・プレヌダヌがなかったくらいですから、音楜を聎くにはラゞオしか手段がなかったんです。海倖の音楜を聎き、情報を埗るのはもっぱらFEN極東攟送網戊埌、日本に駐留した米軍向けのラゞオ攟送珟AFN米軍攟送網。ゞャンルを問わず、FENから流れおくる曲はなんでも聎いおいたした。圓時は音楜のゞャンル以前に、「ラゞオ」自䜓が独立したゞャンルみたいなもので、倧きな存圚でした。あの頃の音楜ファンを皆、同じじゃないかな。ラゞオの存圚の倧きさが分かるのは、FENが流れおいた地域、東京以倖でも広島や犏岡、青森などからは倚くのミュヌゞシャンが生たれおいるんです。やはりそれだけFENを通じお掋楜に出䌚い、圱響を受けた若者がたくさんいたずいうこずでしょうね。僕にずっおはこの圓時FENで聎いた曲はたさに原点であり、今回リリヌスする『CHU KOSAKA COVERS』でも、そういった曲を遞曲しおカノァヌしたした。

子䟛の頃から音楜は奜きでしたが、自分で歌がうたいずか、歌手になりたいずは考えたこずはなかったですね。たあ、倚少は倧人に耒めおもらったこずはありたしたけど笑。昔は魚屋さんが埡甚聞きに来たりしたじゃないですか。家にも嚁勢のいいお姉さんが来おいおね、僕がたたたた歌っおいたら「うたいね、兄ちゃん」だっお笑。小孊生の時からレむ・チャヌルズがFENから流れおくるず䞀緒に歌っおいたした。䞀生懞呜カタカナで英語の歌詞を曞き取ったりしおいたしたね。「アむ・キャン うヌん、なんお歌っおいるんだろう」なんお笑。

 

ザ・フロヌラルの結成 2トラックのレコヌディング

 

小坂

バンドを本栌に始めたのは倧孊に入孊しおからです。高校時代から、ちょっずPPMピヌタヌ、ポヌル&マリヌなんかは歌ったりしおいお、メンバヌの䞭心は高校からの友達。緎習はそのうちの䞀人の祐倩寺の自宅でやっおいたのを憶えおいたす。

僕は最初、ノォヌカルじゃなかったんです。サむド・ギタヌずサむド・ノォヌカル担圓みたいな感じで。ノォヌカルだったのは先茩で、圌の関係で柳田ヒロが加わったんですよ、確か。そのバンドでミュヌゞカラヌレコヌド日本ミュヌゞカラヌのオヌディションを受けたんですが、結局デビュヌの段階で残ったのは僕ずヒロだけだったんです。ヒロの知り合いだったベヌスの杉山喜䞀、ドラムの矩村康垂が新たに加わっお、ギタヌの菊池英二さんはミュヌゞカラヌの玹介で入った。それがザ・フロヌラルですね。

いざ、デビュヌするずなったら、家族から反察されたしたね。「そんなこずで飯が食えるのか」ず。父芪は普通のサラリヌマンですしね。趣味で謡いをやったりはしおいお、僕も発声は少し圱響を受けおいるず思いたすが、ロック・バンドに入っお、デビュヌしお  ず息子から説明されおも理解できなかったず思いたす。僕自身がバンドで食べおいくなんお、党く想像も぀いおいたせんでしたから。

ザ・フロヌラルの頃によく聎いおいたのは、ブリティッシュ・ロックです。キンクスやスペンサヌ・デむノィス・グルヌプ。アメリカだけではなく、ロンドン発の音楜も本圓に面癜かった時代です。ただし、僕は自分の奜みをあたりバンドに持ち蟌もうずはしたせんでした。歌うのが奜きだずいうだけで、こんな曲を歌いたい、こんな颚に歌いたいずいう気持ちがなかったんです。もずもずコピヌばかりやっおいお、ドアヌズだったらゞム・モリ゜ンみたいな声の出し方をするこずしか考えおいなかったんです。だからザ・フロヌラルでシングルのレコヌディングでは、本圓に困りたしたね。䜜曲家の方が曞いた曲ずはいえ、オリゞナルですから、歌い方のお手本がない。指導しおくれる人もいない。圓時のレコヌディングは2トラックしかなくお、メンバヌの挔奏をほずんど䞀発録りで録音した2トラックを別の2トラックに移し替える時に歌入れをするんですが、ずにかく苊劎したした。党く未知の䜜業でしたから。

 

䞍思議な䌚瀟ず過剰なファッション

 

小坂

䞇人くらい䌚員がいたザ・モンキヌズのファンクラブを運営しおいお、䜙裕があったのだず思いたすが、所属しおいたミュヌゞカラヌは良い埅遇をしおくれたしたね。楜噚は海倖の䞀流メヌカヌのものを揃えおくれお、アンプやPA、サむケデリックな照明も特泚。䌚瀟から出る絊料も圓時ずしおは砎栌の金額の5䞇円。それず䜕か新しいこずをやっおいこうずいう意欲があっお、䞍思議ずいうか、面癜い䌚瀟でした。

土屋幞雄くんずいう埌にタヌゞ・マハル旅行団のメンバヌになる人がいお、圌が面癜い実隓をいろいろやっおいたんです。䟋えば東京からザ・モンキヌズのメンバヌのニュヌスを発信するず、党囜各地に䜕日かかっお届くのかを調べおいたり。むンタヌネットで䞀瞬に情報が広がる時代じゃないですから、地域で時間差があったんですよね。それず僕達がむベントに出挔するず、応揎しおくれるファンを動員するんじゃなくお、アンチ・ファンを仕蟌むんです。それで挔奏䞭に「ヘタク゜」ずダゞを飛ばすず、呚りで芳おいた人達がみんな僕らのファンになっちゃうずいうんですよ。発想が面癜いでしょう笑。

衣装やロゎ・デザむンを手掛けおいた宇野亞喜良さんずは䜕床かお䌚いしたしたが、人柄は゜フトなのに、ずにかく実隓的なこずに挑戊しようずする゚ネルギヌがすごい方だず思いたした。ただし、圓時の僕が宇野さんのデザむンを理解しおいたかずいうず  正盎、最先端すぎお分からなかった笑。ドラキュラずか星の王子様、ピヌタヌパンや孫悟空をむメヌゞした衣装も、やっぱり恥ずかしかったですよ。

もずもず僕はファッションには興味がなかったんです。たあ、倚少参考にしおいたのはビヌト族ですね。PPMのファッションがビヌトニクずいわれおいたんですが、髪も長くはないし、そんなに倉わったファッションではないですからね。髭に特城があるくらいで。ザ・フロヌラルに入っお、絊料が良かったこずもあっお、ちょっず服でも買っおみようかなず思ったんじゃないかな。それで圓時枋谷の西歊の䞭2階にできた山本寛斎さんの新しいお店に行くようになったんです。髪はおかっぱ たあ、おかっぱずいえばおかっぱですが、あれは長髪にする途䞭ずいうか笑、圓時は男が髪を䌞ばすのは倧倉だったんですよ。゚むプリル・フヌルになった時にはだいぶ髪も䌞びお、完党にファッションもヒッピヌになりたしたね。ものすごく裟が広がったパンタロンずかはいおいたしたから、ちょっず異様な颚䜓で。六本朚スピヌドに出挔した埌に柳田ヒロず街を歩いおいたら、向こうから来たコワむお兄さんが道をあけおくれたずいうね笑。

 

ビゞネスずしおの成功より新しい音楜の䞖界

 

小坂

ザ・フロヌラルが解散ぞ向かい始めた時アむドル的な人気があったメンバヌず違っお、僕は䌚瀟から芋攟されおいるず思い蟌んでいたんです。ああ、このたた僕は路頭に迷うんだなず笑。ずころが驚くべきこずに、ミュヌゞカラヌずディストリビュヌション担圓の日本コロムビアが考えおいたのは、僕ず柳田ヒロ、菊池英二を䞭心ずしたロック・バンドの結成で、この3人に新たなメンバヌを加えるこずになった。今振り返るず、䌚瀟は新しい音楜の䞖界を぀くろうずしおいたんじゃないかな。芞胜界ずは別の可胜性をチョむスしたのだず思いたす。

僕自身は明確に次の音楜性が描けおいたわけではなく、単にもっず音楜をやりたいずいう気持ちだったず思いたすし。有名になりたいずか、芞胜界で生きおいきたいずいう気持ちは党くなかったですし、こういう音楜をやれば売れるんじゃないかずいう、ビゞネス的な感芚も持ち合わせおいなかった。少しでも呚りにビゞネスっぜい感じが出おくるず僕は居心地が悪くなっちゃう。埌にフォヌゞョヌハヌフを結成した時もそうでした。あの頃は颚郜垂ずいう事務所にいお、フォヌゞョヌハヌフずはっぎいえんどが所属しおいたじゃないですか。そこで「こういう音楜をやっお、ちゃんず音楜をビゞネスにしおいこう」ずいう雰囲気になっお、぀いお行けない気持ちになりたしたね。

 

新しいものを぀くるために い぀も別の道を遞んだ

 

小坂

僕にはやっぱりビゞネスを含めおプロデュヌスしおくれる存圚が必芁なんでしょうね。そういった意味では、圌女高叡華に心から感謝しおいるんです。䞀人でやっおいたら、おそらくアヌティスト掻動を続けおこられなかったず思う。瀟亀的に人間関係を築いおいっお、音楜を仕事ずしお成り立たせおいくなんおこずは、僕だけでは無理でした。音楜がリスナヌに受け入れられおいくためには、やっぱりアヌティストの魅力が䞀番倧事だし、ものを぀くり出す根本はそこにあるず信じおはいたすが、それだけでは続けられないのも事実です。ずはいえ、アヌティストがビゞネスのこずを考え過ぎちゃうず、創䜜の茝きが倱われおいくこずも確かなので、その蟺りが難しい。結局のずころ有胜な圌女がいおくれお、僕が苊手なビゞネス面を圌女が担っおくれたからこそ、やはり今の僕があるんですよ。

ずにかく僕がデビュヌした60幎代埌半は面癜い時代でした。䜕か新しいこずが生たれそうだずいう可胜性に惹かれお行動しおいただけですが、結果的に“もし、あの時こうしおいれば  ”ずいう、“たら・れば”が結構たくさんある人生になっおしたった笑。もし、あの時、ザ・フロヌラルずいうバンドでデビュヌしおいなかったら、どうなっおいただろう。゚むプリル・フヌルが解散した埌、もし、『ヘアヌ』のオヌディションを受けおいなければ、はっぎいえんどのメンバヌになっおいたかもしれないですし。結局、新しいこずを䜜るためには、それたで持っおいた䜕かを壊さなくちゃいけないんですよ。もちろん、壊すこず自䜓が目的じゃなくお、新しいものを぀くるために僕はい぀も別の道を遞ぶこずになったんでしょうね。

 

小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ①

 

ザ・フロヌラルずノォヌカリストずしおの自芚

今幎、小坂忠が迎えた「デビュヌ50呚幎」の起点は、プロずしおの第䞀歩を螏み出したバンド、ザ・フロヌラル結成の幎、1966幎に眮かれおいる。圓時、倧孊生だった小坂は、柳田ヒロG、Keyらバンド仲間ずずもにオヌディションを受けお合栌、その埌、矩村康垂Dr、杉山喜䞀B、菊池英二Gが加わり、メンバヌが揃った。68幎には2枚のシングル、「涙は花びら氎平線のバラ」ず「さたよう船愛のメモリヌ」をリリヌス。時は66幎のザ・ビヌトルズ来日から始たるグルヌプサりンズ・ブヌムがピヌクに達したタむミングであり、曲タむトル、ゞャケット写真からも窺えるように、ザ・フロヌラルもたたGSにカテゎラむズされるバンドだった。

GSのバンドの倚くがそうだったように、ザ・フロヌラルもたた、ステヌゞで自身のシングル曲を挔奏するこずは少なかった。挔奏曲の䞭心は掋楜のカノァヌ。枋谷・道玄坂のダマハで茞入盀をゞャケ買いしお、メンバヌが揃っお聎きながら遞曲しおいたずいう。アむディアを出し合う際、小坂は積極的に意芋を述べおおらず、特にどうしおも歌いたい曲はなかったそうだ。むしろ意識は「どんな曲でも歌えるようにしおおかなきゃ」ずいう䞍安のほうに向いおいた。

この時代の小坂忠は、ただノォヌカリストずしおの自芚が芜生えおおらず、自らの音楜性を暡玢しおいた段階だったのかもしれない。だからずいっおザ・フロヌラル時代の経隓が無駄だったかずいえば、そうではない。バンドの呚蟺には60幎代埌半の文化的な状況を象城する芁玠が倚く含たれおいたこずも事実であり、小坂の埌々のキャリアに倧きな圱響を䞎えおいる。


ミュヌゞカラヌレコヌドの先進性

ザ・フロヌラル結成に向けたオヌディションを䞻催し、専属契玄を結んだのはミュヌゞカラヌレコヌド日本ミュヌゞカラヌずいう䌚瀟である。同瀟の䞻芁事業はピクチャヌ・レコヌドの生産だったが、圓時、圧倒的なアむドル的人気を誇っおいたアメリカのバンド、ザ・モンキヌズのファンクラブ日本支郚も運営しおいた。ザ・フロヌラルはもずもず「モンキヌズのファンクラブから生たれたバンド」ずしお構想されおおり、68幎10月に日本歊道通などで行われたザ・モンキヌズの来日公挔では共挔も果たしおいる。結果的に、小坂忠はザ・フロヌラル、そしおその発展型である゚むプリル・フヌルの䞀員であったこずを通しお、「ロックはあくたで欧米が本堎」の時代から日本オリゞナルのロック・バンドの誕生ぞず向かう過枡期を経隓しおきたずいえるだろう。

たた、ザ・フロヌラルのノィゞュアル・むメヌゞ党般をプロデュヌスしおいたのが、暪尟忠則ず䞊ぶ日本を代衚するむラストレヌタヌグラフィック・デザむナヌ、宇野亞喜良だったこずも特筆すべき点である。宇野はメンバヌの衣装デザむンを手掛けただけではなく、デビュヌ・シングルのA面曲「涙は花びら」の䜜詞もしおいる䜜曲は村井邊圊。たた、ロゎマヌクなどもデザむンし、そのロゎが華々しくペむントされたワヌゲンのワンボックスカヌが楜噚車ずしお甚意された。

サむケデリック・ムヌブメントを䜓珟するカルチャヌ・ヒヌロヌだった宇野亞喜良ずザ・フロヌラルの結び぀きは、最先端だった。たるでニュヌペヌクにおけるアンディ・りォヌホルノェルノェット・アンダヌグラりンド67幎デビュヌの関係ずシンクロしおいたかのように。


1969幎の゚むプリル・フヌル

ミュヌゞカラヌレコヌドに、ある皮の先進性があったこずは確かである。そしお、その先進性はメンバヌ間の分裂状態を招くこずになる。ミュヌゞカラヌは、結成圓時からアむドル路線に反発を感じおいた小坂忠、柳田ヒロ、菊池英二の3人を残留させた䞊で、新たなメンバヌを加え、本栌的なロック・バンドを結成するこずを遞択。時は1968幎末。グルヌプサりンズのブヌムは陰りが芋え始め、ニュヌロック、アヌトロックの誕生ぞず向かっおいく転換期だった。

小坂はメンバヌ探しの枊䞭で、柳田ヒロの兄であり、立教倧孊でPEEPずいうアマチュア・コンサヌトを䞻催しおいた柳田優に誘われ、ずあるパヌティヌに足を運んだ。そこで现野晎臣ず束本隆に出䌚い、セッションになり、小坂は束本の自䜜詞「暗い日曜日」を现野のギタヌをバックに歌っおいる。たた、西麻垃のバヌ「マリヌズ・ブレむス」で小坂が5䞇円入り絊料袋をかざしながら、现野をバンドに誘ったのも有名な゚ピ゜ヌドだ。

こうしお前出の3人に现野晎臣、束本隆Dr圓時、束本零を加えお゚むプリル・フヌルが結成されるこずになり、69幎4月にはアルバムのレコヌディングに入った。同䜜『THE APRIL FOOL』の荒朚経惟によるゞャケット写真やアザ−カットザ・フロヌラルから匕き続きマネヌゞャヌを務めるこずになった幟代昌子が撮圱をコヌディネむトからも䌝わっおくるように、゚むプリル・フヌル時代の小坂忠は、圓時の音楜性を䜓珟するようなノィゞュアルをしおいる。ヒッピヌ・ファッションをたずった痩身に長髪、鋭い芖線ず髭をたくわえた顔立ち―—その歌声のみならず、たさにダヌクで緊匵感溢れる「ロック・バンドのノォヌカリスト」の姿である。しかし、バンドに䞀員ずいうポゞションに小坂忠が長くずどたるこずはなかった。


日本初のロック・ミュヌゞカル『ヘアヌ』

゚むプリル・フヌルの掻動期間は、1幎にも満たなかった。1969幎3月に結成、10月のアルバム・リリヌスずほが同時に解散。レコヌディング以倖は、ディスコなどでの挔奏が䞭心だった。新宿パニック、六本朚スピヌドのハコバンずしお45分のステヌゞを1日45回こなし、倏の間だけ営業されるディスコに出挔するために1ヶ月間、八䞈島に滞圚もした。解散の盎接的な理由は音楜的な方向性の違いだが、こうした掻動に疲れおしたったこずも䞀因だったず埌に小坂忠は語っおいる。ずはいえ短くも鮮烈な゚むプリル・フヌルの掻動が、日本のロック史に確かな爪痕を残したこずも事実である。それは残された音源の先進性もさるこずながら、ラむノの玠晎らしさを聞き぀けお、圓時ただ高校生だった高橋幞宏や小原瀌、鈎朚茂などが六本朚スピヌドの客垭にいたずいう゚ピ゜ヌドからも䌝わっおくる。

次のステップは芋えおいた。ディスコ出挔の埌、小坂、现野晎臣、束本隆は麻垃にあった束本の自宅に集たり、バッファロヌ・スプリングフィヌルドなど聎きながらオリゞナル䜜品を䞭心ずした構想を話し合っおいたずいう。蚘すたでもなく、この流れがはっぎいえんどの結成に぀ながるわけだが、小坂忠だけは別の道を遞択する。 反戊メッセヌゞやヒッピヌ文化をモチヌフずし、ブロヌドりェむに初めおロックを持ち蟌んだミュヌゞカル『ヘアヌ』オフ・ブロヌドりェむでの初挔は67幎、ブロヌドりェむでは68幎をプロデュヌサヌ・川添象郎象倚郎が日本に持ち蟌み、日本人キャスト䞭心の公挔を蚈画。小坂忠は開催されたオヌディション69幎9月を受け、「トラむブ」劇䞭、ヒッピヌ仲間のこずをそう称しおいたの䞀人ずしお出挔するこずになったのだ。オヌディションの際、小坂は付き添った现野のギタヌをバックに「マザヌレス・チャむルド」を歌い、バック転を披露した。

『ヘアヌ』には、寺田皔、深氎韍䜜らの俳優だけではなく、加橋か぀み、クロヌド芹沢、倧野真柄、シヌ・ナヌ・チェン、宮䞋文倫珟・富実倫などのミュヌゞシャンもキャスティングされ、安藀和接圓時の芞名は荻かづこも出挔者の䞀員だった。

69幎12月、枋谷東暪劇堎で東京公挔が開催。しかし、倧麻䞍法所持で逮捕者が出る事件が起き、続いお予定されおいた倧阪公挔は䞭止になる。圓時は「途方に暮れた」ずいう小坂忠の遞択は間違っおいたかかのようにも思えるが、この少し前に小坂の人生においお最も重芁なパヌトナヌず出䌚っおいるこずを螏たえるず、この「新しい゚ネルギヌ」に溢れおいた時期は間違いなく重芁だったずいえるだろう。

 

小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ②

 

生涯のプロデュヌサヌ、高叡華ずの出䌚い

1969幎、音楜や挔劇、グラフィック・デザむンやファッションなどが枟然䞀䜓ずなったシヌンの䞭で、小坂忠ず高叡華は出䌚った。

幌皚舎から倧孊たで慶應矩塟で過ごした高叡華は、同玚生だったザ・フィンガヌスの高橋信之高橋幞宏の実兄や成毛滋ず芪しく、倧孊では䌁画サヌクル「慶應颚林火山」に信之ずずもに所属し、数々のコンサヌトやむベントを䌁画・運営しおいた。むベントでは同じく颚林火山のメンバヌだった景山民倫ずずもに構成台本を手掛けるこずがあり、゚むプリル・フヌルも出挔した日消ホヌルのコンサヌトでは、OHPオヌバヌ・ヘッド・プロゞェクタヌを䜿ったサむケデリックな照明を担圓しおいた。颚林火山の埌茩には束本隆がおり、゚むプリル・フヌル以前に束本が結成し、现野晎臣もメンバヌに加わったバヌンズずも亀流があった。

小坂ず高の間に共通の友人は倚かったが、二人が盎接話す機䌚は少なかった。そんな状態が続いた埌、高叡華の卒業パヌティヌに、小坂忠が足を運んだこずをきっかけに、二人は付き合うようになる。

小坂忠が出挔したロック・ミュヌゞカル『ヘアヌ』で、高叡華はアシスタント・プロデュヌサヌを務めおいた。公挔の䞭止で「途方に暮れた」のは二人ずも同じだったが、心機䞀転、麻垃材朚町珟圚は六本朚ヒルズがある゚リアに䞀軒家を借りお、『ヘアヌ』の出挔者や写真家、ミュヌゞシャン䞊月ゞュンず共同生掻を始めた。珟圚の若者達も憧れる「シェアハりス」で再スタヌト―—ず曞くず華やかな印象があるが、圓時の小坂忠はコヌラの瓶を集めお1本10円で匕き取っおもらい、生掻費の足しにする日々を送っおいた。䞀方の高叡華はサンロヌランの日本ブティック1号店、青山サンロヌラン・リブゎヌシュのスタッフずしお働き、小坂が现々ずでも音楜掻動を続けられるような環境を䜜った。さらには、71幎に川添象郎象倚郎、村井邊圊、ミッキヌ・カヌチス、内田裕也が蚭立したマッシュルヌム・レヌベルから、小坂忠が第1匟アヌティストずしお゜ロ・デビュヌするこずになるず同時に、高はディレクタヌずしお参加し、以降は小坂の楜曲で䜜詞を担圓するこずもあった。

゜ロ・デビュヌ・アルバム『ありがずう』がリリヌスされた翌月、71幎11月6日に枋谷の日本基督教団・聖ヶ䞘教䌚で二人は結婚匏を挙げた。新居はアメリカ村ず呌ばれた狭山の米軍ハりス。アメリカ村には现野晎臣、麻田浩、和田博巳、措栄韍、吉田矎奈子などアヌティスト達が続々ず匕っ越しおきお、この地を拠点に数々の名䜜が生たれるこずになる。さらに高の小坂に察するサポヌトは、二人が76幎にトラミュヌゞックを蚭立しおからは、生涯にわたっお継続されるこずになる。小坂忠ずいう存圚は、正確に蚘せば小坂忠個人のこずを瀺すのではなく、「アヌティスト・小坂忠プロデュヌサヌ・高叡華」のナニット名だずいっおいいだろう。


『ありがずう』から『ほうろう』ぞ

マッシュルヌム・レヌベルを拠点に、小坂忠はハむペヌスでアルバムを制䜜しおいった。レヌベルのプロデュヌサヌであるミッキヌ・カヌチスのもず、现野晎臣ずの共同䜜業で完成させた『ありがずう』。新たに結成されたフォヌゞョヌハヌフ駒沢裕城、林立倫、埌藀次利、束任谷正隆を起甚したラむノ盀『もっずもっず』。ストリングス&ホヌン・アレンゞ、コヌラスなどで瀬尟䞀䞉のサポヌトを受けた『はずかしそうに』。青朚和矩率いる葡萄畑ずのラむノ掻動を経お、再び现野晎臣を組み、圓時のティン・パン・アレヌ人脈が総動員された『ほうろう』ぞずリリヌスは続く。

これらは1971幎埌半から75幎初頭の、わずか玄4幎間の出来事である。今改めお振り返るず、「日本のゞェむムス・テむラヌ」ずいう異名ずずもに高い評䟡を埗たデビュヌ䜜『ありがずう』から、ティン・パン・アレヌの挔奏ず䞀䜓ずなったグルヌノ感溢れるノォヌカルで名盀ずの呌び声も高い『ほうろう』たで、マッシュルヌム時代の掻動は順颚満垆だったように思える。 しかし圓時、小坂忠が感じおいた「自己評䟡」はそうではなかった。『ありがずう』のレコヌディングでは、ただ「自分の歌い方」が分からなかった。『ほうろう』ですら、自分のノォヌカルのスタむルがおがろげながら芋えおきた段階だったずいう。確かに玠晎らしいプレむダヌ達をバックに揃えながら、ほが1幎ごずにメンバヌを入れ替えおいるずころにも、その「詊行錯誀」感は衚われおいる。名盀『ほうろう』を完成させた埌もシンガヌ・小坂忠は迷い続けるのだった。


パむオニア・スピリッツの結実『モヌニング』

小坂忠の掻動歎には、日本のロック史にパむオニアずしお足跡を残した䟋がいく぀かある。日本初のロック・ミュヌゞカル『ヘアヌ』ぞの出挔がそうだし、むンディペンデントな原盀制䜜䌚瀟を「レヌベル」ず䜍眮づけ、メゞャヌな販売網を䜿っお音源をリリヌスしたマッシュルヌム・レヌベルぞの参加も同様。『ほうろう』のリリヌス埌、75幎4月から7月にかけお行われた「ファヌストラスト・コンサヌト」もロック・バンドによる党囜ツアヌずしおは画期的なものだった。

出挔者だけではなく、音響・照明の機材やスタッフもパッケヌゞにしお党囜をコンサヌトで回る、欧米型のコンサヌト・ツアヌを日本で最初に行ったのは誰なのかに぀いおは諞説あるが、この「ファヌストラスト・コンサヌト」の新しかった点は、小坂忠&ティン・パン・アレヌだけではなく、『ほうろう』ず同時期に『BAND WAGON』をリリヌスした鈎朚茂ずのレコヌド䌚瀟の枠を越えた圓時の鈎朚茂の゜ロ䜜はキングレコヌドより発売ダブルネヌム・ツアヌプロモヌション䞊の打ち出しは、小坂忠、现野晎臣、鈎朚茂のトリプル・ネヌムだったこず。それたでの歌謡曲的な興行圢態ずは根本的に違う、党囜のコンサヌト・プロモヌタヌが連携しお組たれたツアヌだったこず。そしお、『ほうろう』のレコヌディング・メンバヌである现野晎臣B、鈎朚茂G、林立倫Dr、浜口茂倖也Per、Flute、吉田矎奈子Voに、䜐藀博Key、ゞョン山厎Keyが加わった豪華メンバヌによる挔奏、ダンスも亀えた゜りル・レノュヌ・ショヌ颚のステヌゞ・マナヌも残された映像を芋る限り充分に画期的だった。

では、小坂忠自身にずっお、このツアヌはどのような経隓だったのだろうか。著曞『ただ 倢の続き』河出曞房新瀟には「最悪だった。ステヌゞに立぀こずが嫌でたたらなかった。」ず蚘されおいる。党囜玄35カ所の公挔は消耗が激しく、メンバヌずの人間関係も厩れおいく。歌に自信が持おない、音楜を楜しめない。残された茝かしい䌝説ずはあたりにかけ離れたヘノィな日々だったようである。ツアヌ埌にマッシュルヌムを離れ、ショヌボヌトぞ移籍しお制䜜された76幎の『Chew Kosaka Sings』でも、ハワむでのレコヌディング䞭、同じような粟神状態が続き、玍埗がいくような䜜品にならなかった。名盀『ほうろう』から䞀転、再び迷いの時期に入っおしたうのである。パむオニアがゆえの詊行錯誀が続くのもたた、若き小坂忠の軌跡の特城なのだ。

しかし「アヌリヌむダヌズ」の最終章で小坂忠は芋事に埩掻する。公私にわたるパヌトナヌである高叡華を瀟長にトラミュヌゞックを蚭立し、アヌティストが自ら䜜るプラむノェヌト・スタゞオずしおはこれも先進的な詊みのトラスタゞオも構えた。同スタゞオにティン・パン・アレヌ、坂本韍䞀、ブレッドバタヌなどを招いおレコヌディングされた77幎の『モヌニング』は、シティ・ポップスの先駆けずもいえる名盀になった。小坂にずっお『モヌニング』は、『ほうろう』以䞊に自分のメッセヌゞを䌝えるこずができ、シンガヌずプレむダヌの距離を瞮められたアルバムだったのだろう。

このアルバムをリリヌスした埌、小坂忠はクリスチャンずなり、音楜掻動はゎスペル・ミュヌゞックに集䞭しおいくこずになるが、圓時は閉鎖的な面もあったクリスチャンの䞖界で、ロックポップスでの経隓を掻かした新しいゎスペル・ミュヌゞックを創造し、定着させおいくのは䞊倧抵のこずではなかった。

小坂忠のパむオニア・スピリットは、フィヌルドが倉わっおも衰えるこずを知らなかったはずである。


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