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「静謐」「繊細」「透明」といった言葉で、その音楽性を形容されることの多い大貫妙子さんは、一方でタフな行動力の持ち主でもある。これまでも自分の好きなものを追い求めて世界中に足を運び、音楽をつくり上げ、文章を記してきた。日々の暮らしの「基本」は大切にするが、新しいことと出会うためには日常からの逸脱も厭わない。そんな大貫さんの姿勢のルーツは、どこにあるのだろうか? 少女〜学生時代を東京・杉並区周辺で過ごし、1973年、21歳の時に山下達郎さんらとシュガー・ベイブを結成するまで。ジャンルを問わずに音楽を聴き続ける中で、映画を通してウッドストックから受けた大きな衝撃。「ロック・シンガーにはなれなかったけれど、私は今でもロック」と語る大貫妙子さんが体験した「逸脱と自由への第一歩」。

 

「妙子さんは歌を伸ばしたほうがいい」

——音楽との出会いからお話を伺えればと思います。


大貫

昔の話となると、記憶は断片的ですが。どこかに仕舞われているのでしょうけれど。思い出せることからお話ししていくと……小学校の低学年、3年生から4年生くらいまで音楽ならジャンルを問わずなんでもという感じでした。うちにあったステレオの前に陣取って、母が好きだったクラシックや父が持っていた軍歌、子どものための歌のソノシート、岸洋子さんの「夜明けのうた」とか。1日中飽きずに聴いていました。なかでもプラターズの「煙が目にしみる」が入った4曲入りのEP盤は洋楽で最初に気に入った曲だと思います。このレコードは今も持っています。「夜明けの歌」もプラターズも、歌詞は全部覚えちゃったので今でも歌えます(笑)。


音楽に夢中な毎日。とにかくステレオの前から離れなかったらしいので。『くるみ割り人形』をかけながらクルクル踊っていたのを見た母が、クラシック・バレエとピアノを習わせてくれました。その頃がいちばん家に経済的余裕があった時代。小学校低学年の時の習い事というのは、今思い返すと全部が自分にとっての基礎になっていますね、バレエもピアノも。


でも、そんなに続かなかった。毎年バレエの発表会があって、私は身体も小さかったし、とうてい主役にはなれないと挫折感満載で。背が高くてかわいい子が絶対選ばれる。私は「ハチその1」のミツバチ役とかで(笑)。世の中ってこういうものなんだと、本当にその時思ったの子ども心に。とくべつ熱心だったわけでもなかったような記憶もあるし。このままバレエを続けていけないと思った途端、興味も薄れてきて。でも、バレエは好きですね。WOWOWのシリーズでやっていた、〜パリ.オペラ座バレエ学校の一年〜は、ずっと見ています。バレエの基礎はとても体幹を鍛えるためには良くて、子供の頃に習うと姿勢がよくなりますよ。


ピアノはそこそこ弾けるようにはなっていましたが、毎日練習するのがイヤでした。小学校4年生の時にうちが引っ越すことになって、それをきっかけに辞めたんです。先生は歌も教えていた方でしたから私は歌も習っていたんですが、「妙子さんはピアノより歌を伸ばしたほうがいい」と先生がおっしゃっていたと、だいぶ後になってから母から聞いて。ピアノより声には感心をしめしてくださったということかもしれませんね、子供の頃は(笑)。


——すでにご自宅にあったレコードではなくて、自分の意志で積極的にこれを聴きたいと思った音楽は?


大貫

小学校4年生で引っ越したのは、父の仕事が理由でしたが、経済的窮困に。レコードも含めて、すべてがなくなっちゃった。それでも私は音楽が好きで、友だちの家へ遊びに行くと、そこのお姉さんがずっとFENを聴いていたので、部屋から流れてくる曲をワクワクしながら廊下で聴いていました。中学に入る頃になって、自分ではレコードを買えなかったけれど、6歳上の兄が買ったものを聴いてました。「マシュ・ケ・ナダ」が入っている1966年の『セルジオ・メンデス&ブラジル’66』なんて、むちゃくちゃカッコよくて、またまたステレオ独占です。今もそのLP持っていますがホントに音がいい!それとニーナ・シモンとか、兄の持っていたものはジャズ系の渋いレコードが多かったです。


ウッドストックは「カッコいいの塊」

——いくつかの記事を読ませていただくと、大貫さんはロック少女だったそうですね。


大貫

そうですね。ビートルズは少しコピーしていました。「This Boy(こいつ)」とか。中学校の文化祭で歌ったりして。でも、ビートルズからはあまり影響を受けていないと思います。中学校の時にギターを弾いていたのは数人でしたし、洋楽に興味をしめす子もあまりいませんでした。中学の時はバスケットボール部に入っていて、試合にはいつもスタメンで出させてもらっていました、ポジションはセンターでした。とにかくウサギ飛びばかりさせられた記憶しかありません。高校に入ってからは、他校の人とバンド組んだりして、フィフス・ディメンションやママス&パパスのコピーでしたし。それよりも影響を受けたのは当時の日本のロックでしょうね。例えば村八分とかエム(THE M)とか。


あっ、それで1つ思い出した。10代の終わり、高校卒業する前の夏休みに、村八分が出ると聞いてひとりで日比谷の野音に行ったんです。高校ではずっと無遅刻無欠席を通していた真面目な生徒だったし、そういうところへ行ったことなかったし。ものすごくドキドキしながら行ったんですよね。


——そんな少女がひとりで野音へ行って、しかも村八分がお目当てだったなんて、相当勇気を振り絞った感じですよね(笑)。


大貫

とにかくドキドキした(笑)。きっかけは、ウッドストックなんですよね。ウッドストックの映画(1970年日本公開)を観ちゃったから、日本と全然違う、世界はこんなことになっているの? と思って。男も女もみんな裸で池に入っちゃったりしていて、もうびっくりして。そのカルチャーショックで、目からウロコがボロッと落ちました。今まで自分が真面目にしていたことは、なんだったんだろうみたいな(笑)。


自分は学校では真面目で、生活も基本的に真面目で、まわりにあったアメリカの音楽って、ポップス系だとニール・セダカみたいなものだったのに。ウッドストックを知ったら、びっくりしますよね。ウッドストックに出ていたミュージシャン、ザ・フーとか手を上げると衣装が鳥の羽みたいで。とにかく自由度がすごい!と。


——ザ・フー以外に素晴らしいと思ったミュージシャンは?


大貫

ジミ・ヘン(ドリックス)もそうだし、ジャニス(・ジョプリン)もそうだし。CCN&Y、スライ&ファミリー・ストーンなんて、カッコイイの塊だった。とにかく驚きました。聴いたことのない音楽だらけで。若い頃って先入観とかないですから、もうダイレクトに音楽が入ってきちゃう。魂を揺さぶられた思い、でしたね。


——村八分の野音はどんな雰囲気だったのでしょうか?


大貫

私は長い髪でスモック着て、花柄の長いスカート、ヒッピー風ですかね。周りの人も皆そんな感じで。ひとりで客席にいたら、隣りの男の人が話しかけてきて。「これからみんなで友だちのところへ行こうよ」って。どうしようかな……でも今までの真面目な自分から少し脱皮しなきゃいけないと思って、ついて行きましたよ(笑)。


——えっ! ついて行っちゃったんですか?


大貫

(笑)。どこか知らない街のアパートだったと思うんだけれど、なんとなく世田谷あたりのような記憶がある。そこへ行ったら、狭いところに多分大学生くらいの知らない男女がワイワイいて、すでにみんな酔っぱらっていましたから。なんというか日本風ウッドストックでフリーダムな雰囲気をみんなで楽しんでいた、という感じでしょうか、今思えばですが。全然、危険な感じはなくて、私も勧められるままお酒を飲んだら、ふだんそんなの飲まないですから、高校生だし。グルグル状態になっちゃって(笑)。みんなで夜中に大騒ぎしていたら、窓から近所のおばさんの「うるさい!」という叫び声がしたのを憶えている(笑)。それが生まれて初めて無断外泊。母親は、もう警察に届けようかと思ったらしいんですけど。私は朝10時くらいに目が覚めて、一応うちに電話しました。「あなた、どこにいるの?」「いや、友だちのところ」って言ったけど、どうもロレツが回ってなかったらしい(笑)。


大貫

私は全然ちゃんとしているつもりだったんですけど。娘は何をしているんだろうと思ったことでしょう。「早く帰ってらっしゃい!」と言っただけで、母親は責めるわけでもなく、ただ猛烈に我慢していたのだと思います。娘はいったい何をしていたのだろう、と。


記憶が定かではないんですけれど、ちょうど夏休みが終わる頃だったんですね。うちに戻ったら、なんか喉が痛くて、高熱出して、1週間くらい初めて学校を休んだんです。そこからもう「いいや」と思って。何がいいやだか分からないんですけれど(笑)。10年くらい経ってから、「あの時のこと憶えてる? あたな、ロレツが回ってなかったわよ。お母さん、どれだけ心配したのかわかる?」なんて言われて、「そうかあ……」と本当に申し訳ない気持ちになりました。


自分を突き動かした「小さな一歩」

——真面目に自分を律する気持ちと野音に飛び込んでいく行動力、学生時代の大貫さんの中で両方が共存していたところが面白いですね。


大貫

学校に遅刻しないで行くとか、休まないというのは生活の基本みたいなもので、当然だろうという感じだったので、別に自分では特に真面目だとは思っていなかったし、あたりまえのことだと。どちらかというと臆病な方ですが、そのくらいがちょうどいいんだろうと思います。臆病な自分が、どうしてもしたいこと。自分を突き動かしてしまうことが、小さな第一歩なんだと。そうやって積み重ねる経験が、その時はわからなくても今に繋がっているのだと思います。好奇心だけで行動することはないですね。海外にもたくさん行きましたが、夜にひとりで出歩くなんてことは、絶対に!!しない(笑)


——日々の生活で常に親に心配かけたくないという気持ちも持っていて。


大貫

まあ、そうですね……でも、親だけではなく、人さまに心配かけたくないと思うのはごく普通ですよね?


——基本は守るけれど、型にはめられたくはないという感じでしょうか。


大貫

小学校の低学年の時から、必ず通信簿に「協調性がありません」と書かれていましたね。そこは根本的な性格なんじゃないですかね。


幼稚園の頃のことでしっかり憶えているのは、父兄参観日があって、男の子も女の子もみんなでお遊びしましょう、工作でも折り紙でも、おままごとでもいいですよ、どうぞご自由にと言われた時に、女の子が遊んでいる場所には絶対に行かなかった(笑)。男の子たちと一緒に飛行機とかをつくっていましたね。女の子に対して「あの子たちと一緒だと思われるのはイヤ」とはっきり思っていましたから。幼稚園ですでに自我というか自意識があったわけで……今思うとなんかイヤな子どもですね(笑)。バレエを習っていた時もそうだったように、子どもは子どもで意外とよく社会を認識しているというのが、今でも経験上わかることで。ですから幼い子どもを子ども扱いしない、というのが私の心情です。


——音楽以外の文化、例えば文学や漫画などにも触れていましたか。


大貫

漫画は購読していた「少女フレンド」と「マーガレット」、兄が読んでいた『少年サンデー』ですね。でもやはり音楽がいちばん好きでした。


——意外ですね。ロック少女ではあったが、文学少女ではなかったと


大貫

全く文学少女じゃないです。読んでいたのはレコードについている歌詞カードくらい。洋楽の歌詞は、あとから多少英語が分かるようになって読むと、気づくことがたくさんありますね。意外とこんなとりとめない歌詞だったんだ、とか。


自分を守って媚びないのが「ロック」

——村八分の存在はどこから知ったのでしょうか。


大貫

憶えていません(笑)。ラジオだったのかな。FEN以外に「オールナイトニッポン」も聴いていましたし。その頃は古井戸も聴いていましたね。レコードも買って持っていました。ガロも聴いていました。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングみたいだと思った。どんどん好きなものは変わっていくんですよね。


——初めて自分で買ったロックのレコードは?


大貫

ロックで初めて買ったのは、グランド・ファンク・レイルロードの赤いジャケットの『グランド・ファンク』。今も持っていますね。さすがに雨の後楽園球場のコンサート(1971年)までは行けませんでしたけれど。


——ティーンエイジャーだった大貫さんは、ロックという音楽のどこに魅力を感じたのでしょうか。


大貫

ロックって音楽ジャンルのことではないと思うんですよね。若い頃は、古めかしい言い方をするなら、その定義を反体制、反権力、だと思っていましたが。自分が自分であることを守り媚びない姿勢がロックなんだと思っています。ロックのふりしてロックっぽい音楽をやっていても、中身はロックじゃない人もいますから。フランス録音とかしたりしていた頃も、渋谷陽一さんのインタビューを受けた時に、「大貫妙子はロックである」とおっしゃっていましたから。そいうことにしておきます。


——ロックが好きだと思っていても、自分で歌うとなると、また違った距離感が出てくるものでしょうか。


大貫

若い頃はジャニス・ジョプリンみたいになりたいなと思っていて、なんとか声をハスキーにしたくてお酒を飲んで、大声で歌ったりすると、声がハスキーになったと喜んでいました。でも、一夜明けると元の声に戻っちゃうんですよね、何度やっても。音楽のカテゴリーとして声がロック向きじゃないというのは決定的なことなんです。シュガー・ベイブや最初のソロの頃は、今より太い感じで声を出していたんですけれど、今聴くとすべて消去したいという気分になります。手本とするものにこだわりすぎていた。若い頃は自分の声が好きではなかった。でも、ある時から考えが変わってきて、受け入れるということ。自分が歌を続けられているのは、この声だったからだろうし、声だけではなく色々なことに感謝しなきゃいけないなという気持ちになりました。この声を最大限に活かすためにどういうサウンドをつくっていくか、それをまず考えるようになりました。


「若さ」という「無限の可能性」


——10代の頃に聴いていたミュージシャンで、こういう存在に自分はなりたいと憧れた人はいましたか。


大貫

ジョニ・ミッチェルですね。シュガー・ベイブを解散して、ジョニ・ミッチェルの『ブルー』をもう1回ちゃんと聴いて、改めてものすごく独創的な人だと思いました。例えばキャロル・キングの音楽はいいなと思っても、そんなに驚くようなことはないけれど、ジョニ・ミッチェルには独特な世界があって、アルバムが出る度に新しいことをやっている。その後もずっと聴き続けてきて、彼女から学んだことはたくさんありますね。いつも素晴らしいミュージシャンと組んでいますが、彼女はミュージシャン達から特別な存在だと思われていたのかもしれません。その頃はもうジャニスが目標ではありませんでした。


——確かにジョニ・ミッチェルは、ジャニスのようにロックやブルースを歌うのに向いている声ではないですが、ミュージシャンとしての存在はロックですよね。最初に曲を書いたのはいつのタイミングだったのでしょうか。


大貫

はっきりと1曲を完成させたのはシュガー・ベイブからです。詞みたいなものはたくさん書いていましたけど、全然採用されず。それ以前に組んでいたのは、フォーク・グルーブ(三輪車)だったこともあって、他のメンバーからは「この詞は難しいね」と言われていました。


——曲を書きたいという意識はずっとあったんですよね。


大貫

あまりなかったですね。というか自分が音楽で食べていけるなんて、100%思っていなかったですから。シュガー・ベイブの時でさえ。今でも山下(達郎)くんと会うと、「僕たち、こんなに長くやると思わなかったよな」「ホントだね」って話になるの。会う度に、しみじみそういう話をしている(笑)。


当時はアルバイトもしていましたし。毎日ケチャップだけのスパゲティ・ナポリタンでも、まったく平気でした。アルバイトのお金が入って、ナポリタンにウインナー入れられれば幸せみたいな(笑)。何も考えていない。音楽をする場があればひたすら楽しく、食べられなくてもいいやって。それが若さの特権であり、お金が入って、悩んで悩んでLPを1枚手に入れて聴き倒す喜びの方が、食にこだわるよりはるかに幸せでしたから。


——シュガー・ベイブの時、大貫さんは21歳ですよね。


大貫

そう。本当に初々しい時代でした。振り返ると懐かしくて涙が出そうです。若いというのは誰もが無限の可能性を持っている、宝の玉手箱ですね。流されず頑張ってもらいたいと心から応援しています。夢中になることがあれば是非それを捨てないでほしい。本当に好きなことなら、世の中が今それを認めなくても、必ず続けていけると思います。何故なら、そのことは自分を幸せにしてくれるから。

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