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アーティスト・アーカイヴ

ARTIST ARCHIVES

大江千里

オオエセンリ

大江千里(おおえせんり) 1960.9.6東京生まれ。生後間もなく大阪に転居。早くからピアノを習い、中学生時代には作曲も始めていました。大学時代に結成していたバンドがレコード会社の目に留まりましたが、シンガーソングライターとしてデビューすることになり、83年にシングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム『WAKU WAKU』をリリース。その後、ポップな音楽センスと親しみやすいキャラクターで人気者となり「十人十色」「格好悪いふられ方」などのヒット曲を送り出すとともに、ソングライターとしての楽曲提供や俳優などとしても活躍しました。また、95年の阪神淡路大震災に際しては、積極的にチャリティ活動を行っています。2007年、これまでの音楽活動に区切りをつけ、ジャズピアニストを目指してニューヨークに渡り、2012年、ジャズピアニストとして初のアルバム『Boys Mature Slow』をアメリカと日本でリリース。

大江千里

大黒摩季

オオグロマキ

大黒摩季(おおぐろ まき) 12月31日、北海道生まれ。プロの歌手を目指して単身で状況し、オーディションを経て、コーラスを中心に活動を始めます。1992年、優れた歌唱力が評価されて「STOP MOTION」でデビュー。セカンドシングル「DA・KA・RA」が大ヒットし、この年のレコード大賞新人賞を受賞します。その後、「チョット」「夏が来る」など大ヒットを次々と送り出しました。初期はレコーディング活動が先行していましたが、97年から本格的なライヴ活動もスタートさせました。2000年は充電期間として活動を休止、2001年に活動を再開、それまでより幅広いスタンスで活動を展開していきましたが、現在は病気治療のため活動を休止しています。

大黒摩季

大澤誉志幸

オオサワヨシユキ

大澤誉志幸(おおさわよしゆき) 1957.10.3東京都に生まれる。高校生時代からバンド活動をしていましたが、大学生の時に結成したバンド、クラウディ・スカイのヴォーカリストとして、81年にレコードデビュー。同年末にクラウディ・スカイが解散すると、単身ニューヨークに渡り約一年滞在しました。帰国後、作曲家として沢田研二の「おまえにチェックイン」「晴れのちBlue Boy」、中森明菜の「1/2の神話」、山下久美子の「こっちをお向きよソフィア」、吉川晃司の「ラ・ヴィアンローズ」らのヒット曲を手掛けるとともに、自らも83年にシングル「彼女には判らない」でアーティストデビュー。84年には「そして僕は途方に暮れる」をヒットさせました。<!-- 98年、作家、プロデュース活動に専念するためにアーティスト活動を休止しましたが、2002年に活動を再開。その時に大沢誉志幸から大澤誉志幸と表記を変えています。 -->

大澤誉志幸

大滝詠一

オオタキエイイチ

1948年7月28日、岩手県出身。1969年、エイプリルフールを解散した細野晴臣(ほその はるおみ)と松本隆(まつもと たかし)、さらにギタリスト鈴木茂(すずき しげる)とヴァレンタイン・ブルーを結成。その後、ヴァレンタイン・ブルーははっぴいえんどと名を替えました。大滝詠一(当時の表記は大瀧)は、はっぴいえんどの活動中にもソロ名義でレコードを出していましたが、はっぴいえんどの解散後、自らのレーベル、ナイアガラを発足させます。ナイアガラでは大滝詠一の作品だけでなく、シュガー・ベイブをデビューさせるなど、プロデューサーとしても活動。70年代は、趣味性が強いアーティストとされていましたが、81年、『A LONG VACATION』の大ヒットで、そのクオリティの高さが広く知られることとなります。圧倒的な存在感を持つと同時に、きわめて寡作なアーティストとしても有名。

大滝詠一

太田裕美

オオタヒロミ

太田裕美(おおた ひろみ) 1955.1.20.東京都出身。早くから音楽学校に通いながらスクールメイツのメンバーとして活動。73年にはNHKの「ステージ101」にヤング101のメンバーとして出演していました。74年、シングル「雨だれ」でレコードデビュー。アイドルでありながら、フォーク的な匂いを感じさせるピアノの弾き語りというスタイルで注目されました。75年には松本 隆が作詞を手がけた「木綿のハンカチーフ」のヒットで、歌謡曲とニューミュージックのかけ橋的な存在として認知されることになります。太田裕美自身も、シンガー・ソングライター色を深めるとともに、さまざまなミュージシャンとのコラボレーションなど積極的なアプローチを展開していきました。現在も、母親としてのスタンスを軸にしながらマイペースで音楽活動を続けています。

太田裕美

大塚博堂

オオツカハクドウ

1944年3月22日生まれ、大分県別府市出身のシンガー・ソングライター。当初ジャズ・シンガーとして活動し、72年に“大塚たけし”名義で歌手デビュー。不遇な時を過ごすものの、クラブでの弾き語りの活動などが評判になり、32歳となった76年6月に『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で再デビュー。これが評価され、“愛を唄う吟遊詩人”として徐々に人気を高めていく。代表作は「めぐり逢い紡いで」「過ぎ去りし想い出は」「季節の中に埋もれて」など。81年5月18日に脳内出血のため37歳で急逝。

大塚博堂

大塚まさじ

オオツカマサジ

大塚まさじ オオツカ・マサジ
1950年3月18日生まれ、大阪府茨木市出身のフォーク・シンガー。69年、19歳の時に大阪・難波元町の喫茶店“ディラン”を開店。西岡恭蔵、中川イサト、友部正人、加川良らと出会う。70年に西岡恭蔵、永井洋らと“ザ・ディラン”、71年に永井ようと“ザ・ディランII”を結成。「男らしいって解かるかい/プカプカ」でデビューを果たす。74年の解散までにアルバム5枚を発表。76年、「遠い昔ぼくは…」でソロ・デビュー。以降、関西を中心に活動を展開。85年からは全国一周ひとり旅ツアーを開始。また、俳優や著述、ラジオパーソナリティとしても活躍。

大塚まさじ

大貫妙子

オオヌキタエコ

1953年11月28日、東京都出身。高校生時代からアマチュアで活動を始めました。セッションを通じて山下達郎と出会い、73年にシュガー・ベイブを結成。75年に『SONGS』でレコード・デビュー。76年、シュガー・ベイブの解散によってシンガー・ソングライターとしてソロ活動に入り、同年ソロ・アルバム『Gray Skys』を発表。その後、コンスタントに作品を発表していきますが、80年代初期、ヨーロッパ的ロマンティシズムの感覚を取り入れた作品で独自の世界を確立。その後も高い音楽性に裏打ちされた透明感あふれる作品をクリエイトし続けています。

大貫妙子

大橋純子

オオハシジュンコアンドミノヤセントラルステイション

1950年4月26日 北海道生まれ。藤女子短期大学在学中に北海道大学の軽音楽サークルに入り、ロック・バンド“ジェット・マシーン”のリード・ヴォーカルとして活躍。卒業後上京し74年デビュー。77年には美乃家セントラル・ステーション名義でバンド活動。「たそがれマイ・ラブ」のヒットを経て、82年「シルエット・ロマンス」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。

大橋純子

大村憲司

オオムラケンジ

大村憲司 オオムラ・ケンジ
1949年5月5日生まれ、兵庫県神戸市出身のギタリスト/作曲家/アレンジャー。69年にコンテストのロック部門で優勝。渡米を経て、“赤い鳥”に参加するも73年に脱退。その後、エントランス、バンブー、カミーノとバンドを結成。80年にはYMOのツアーに参加。以降、80年代はアレンジャーとしても活躍。山下久美子、大江千里、本田美奈子らの楽曲を手掛ける。80年代後半から90年代前半にはギタリストとして後藤次利作品を中心に参加。“ミュージシャンズ・ミュージシャン”として名を馳せたが、98年11月18日に49歳で死去。

大村憲司

岡林信康

オカバヤシノブヤス

岡林信康(おかばやし のぶやす) 1946.7.22.滋賀県出身。67年、滋賀のキリスト教教会で行なわれたフォーク集会で高石ともやと出会い、自作の曲を歌うようになります。68年に「山谷ブルース」でレコードデビュー。社会的タブーにも鋭く踏み込んだメッセージ色の強い曲を発表し、多くのミュージシャンに影響を与え、フォークシーンをリードする存在になります。70年には、はっぴいえんどをバックバンドに起用してロック色を打ち出すなど、次第にその音楽の幅を広げていき、演歌、ポップス、民謡などを消化しながら自分ならではの表現を模索しつつ、現在も活動を続けています。

岡林信康

岡村孝子

オカムラタカコ

岡村孝子(おかむら たかこ) 1962.1.29、愛知県生まれ。大学の同級生だった加藤晴子(かとう はるこ)とデュオグループ、あみんを結成し、82年に「待つわ」(作詞作曲:岡村孝子)でレコードデビューしました。あみんは83年いっぱいで活動休止となりましたが、85年10月にシングル「風は海から」、アルバム『夢の樹』でソロデビュー。87年にリリースした「夢をあきらめないで」が多くの人に愛され、音楽教科書にも掲載されるなど、シンガーソングライターとして活躍。07年からはあみんとしての活動も再開しています。

岡村孝子

岡村靖幸

オカムラヤスユキ

岡村靖幸(おかむら やすゆき) 1965.8.14.兵庫県出身。高校生の頃から音楽に取り組み、ソングライターとして渡辺美里、吉川晃司らに楽曲を提供していきます。86年、自らもシングル「OUT OF BLUE」でアーティストとしての活動をスタート。優れた楽曲とアクティブなパフォーマンスで人気を集め、「だいすき」「どぉなっちゃってんだよ」などをヒットさせていきます。90年代半ばからは、他のシンガーへの楽曲提供やプロデュースを中心としていますが、アーティストとしての活動も断続的に行っています。

岡村靖幸

岡本真夜

オカモトマヨ

岡本真夜(おかもと まよ) 高知県出身。1月9日、高知県生まれ。高校卒業後、音楽家を目指して上京、曲作りを中心に活動し、1995年に自作曲「TOMORROW」でデビュー。「TOMORROW」は大ヒットし、この年のNHK「紅白歌合戦」に出場。これが初のテレビ出演でした。その後も「FOREVER」「そのままの君でいて」などのヒット曲を送り出す一方、ソングライターとしても活躍し、石井聖子、広末涼子、岩崎宏美など、多くの歌手に楽曲を提供、プロデューサーとしても活躍していきます。テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「アララの呪文」の作曲も手がけています。

岡本真夜

奥田民生

オクダタミオ

奥田民生(おくだ たみお) 1965.5.12.広島県出身。1986年、UNICORNにヴォーカリストとして加入し、87年レコードデビュー。バンド在籍中にも、ソロシングル「休日/健康」をリリースしたり、JUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人とユニットを組んだりしていましたが、93年にUNICORNが解散すると、94年のシングル「愛のために」をきっかけに本格的なソロ活動をスタート。さらに96年にはプロデューサーとして女性デュオグルーフPUFFYを手がけたり、97年には井上陽水とのユニット「井上陽水奥田民生」を結成し、アルバム『ショッピング』をリリースするなど、多彩な活動を展開しています。

奥田民生

小椋佳

オグラケイ

小椋 佳(おぐら けい) 1944.1.18.東京都出身。東京大学在学中の66年、自主制作された天井桟敷のアルバム『初恋地獄篇』の音楽を担当。67年の東京大学卒業後は日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入社し、銀行員として働く一方、71年にデビューアルバム『青春~砂漠の少年』を発表します。以来、年一枚のペースでアルバムをリリース。正体不明の匿名シンガー・ソングライターながら『彷徨』(72年)が100万枚を越すビッグヒットを記録、その音楽は多くのリスナーに支持されました。76年に初のコンサートを行いますが、特別な時以外はほとんど人前に姿を見せませんでした。93年に銀行を退社して以降は、ステージを含めた音楽活動を精力的に展開しています。

小椋佳

尾崎亜美

オザキアミ

尾崎亜美(おざき あみ) 1957.3.19.京都府出身。子供時代にクラシックピアノを習い、16歳頃から作詞・作曲を手がけはじめます。76年に「瞑想」でレコードデビュー。翌年、「マイ・ピュア・レディ」がCMに使われてヒットし、ポップ・テイストあふれるシンガー・ソングライターとして脚光を浴びました。他のシンガーへの楽曲提供も多く、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、松田聖子「天使のウィンク」などのヒット曲を送り出しています。

尾崎亜美

尾崎豊

オザキユタカ

尾崎 豊(おざき ゆたか) 1966.11.29.東京都出身。16歳の頃に曲をつくり始め、ステージも経験。82年にCBSソニーオーディションに合格し、83年にシングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でシンガー・ソングライターとしてレコードデビューしました。鮮烈なメッセージをもった尾崎 豊の作品は、若い世代の圧倒的支持を受けました。その後もストイックに自分と向き合い、身を削るように作品を生み出していきましたが、92年に肺水腫のため死去。

尾崎豊

小沢健二

オザワケンジ

小沢健二(おざわ けんじ) 1968.4.14.神奈川県出身。1989年に「フリッパーズ・ギター」のメンバーとしてデビュー。91年の解散後はソロ活動をスタートさせ、『犬は吠えるがキャラバンは進む』『LIFE』『球体の奏でる音楽』などのアルバムを発表。ヒップポップやソウルの要素をミックスしたサウンドで人気を集めましたが、98年にシングル「春にして君を想う」をリリースしたあと渡米し、活動を休止します。その後、2002年の全編N.Yレコーディングとなる『Eclectic』、06年のヴォーカルレス作品『Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学』を発表。10年には13年ぶりの全国ツアーを実施し、寡作ながら現在も根強い支持を受けています。

小沢健二

小田和正

オダカズマサ

1947年9月20日、神奈川県出身。中学生、高校生時代は野球に熱中するとともに音楽に関心をもち、高校時代には自らグループを結成してステージに立つようになります。そして、友人と結成したフォークソング・グループを母体にしたオフコースで70年にレコード・デビュー。小田和正は、その中心メンバーとして「さよなら」「Yes-No」など多くのヒット曲を送り出しました。オフコースが89年に解散してからもソロ・アーティストとして活動し、280万枚を売り上げた「ラブ・ストーリーは突然に」(91年)をはじめ、オフコース時代に負けない活躍を見せています。その一方、映画監督としても『いつか どこかで』(92年)、『緑の街』(97年)などの作品を手掛けたり、2001年から毎年スペシャル番組「クリスマスの約束」を制作するなど、多彩な活動も展開。現在も、トップ・アーティストとして精力的に活動を続けています。

小田和正

小谷美沙子

オダニミサコ

小谷美紗子(おだにみさこ) 1976.11.4、京都府生まれ。早くから作詞・作曲を始め、高校生時代にオーストラリアに留学していた間も曲作りを続けていたといいます。96年、シングル「嘆きの雪」でデビューし、ライブ活動も展開していきます。ピアノの弾き語りを中心にしたその演奏は、高い音楽性で根強い支持を受けています。2003年には、小谷(vo)、田渕ひさ子(たぶちひさこ g)、池田貴史(いけだたかふみ kb)、二宮友和(にのみやともかず b)、玉田豊夢(たまだとむ d)でodani misako-ta-taを結成し、カバーミニアルバム『feather』をリリース。05年には、玉田豊夢、山口寛雄(やまぐちひろお b)と小谷美紗子Trioを結成し、レコーディングやライヴ活動を行っています。

小谷美沙子

鬼束ちひろ

オニツカチヒロ

鬼束ちひろ(おにつか ちひろ) 1980.10.30、宮崎県生まれ。高校時代にオーディションに合格し、卒業後に上京。2000年、シングル「シャイン」でデビュー。高い音楽性に裏打ちされた独特の世界観をもったシンガーソングライターとして注目され、セカンドシングル「月光」がヒット。サードシングル「眩暈」でレコード大賞作詞賞を受賞しています。その後、精力的に活動を展開し、02年には武道館コンサートも実現させました。この頃から、過密スケジュールなどによる体調不良により活動は断続的となりましたが、07年には2年7か月振りにシングル「everyhome」をリリース、08年にも4年8か月振りの単独コンサートを行っています。また、12年には初の洋楽カヴァーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』をリリースしました。

鬼束ちひろ

小野リサ

オノリサ

小野リサ(おのりさ) 1962.7.29生まれ。ブラジル・サンパウロ出身。10歳で帰国、15歳頃からギターを弾き、ボサ・ノヴァを歌い始めています。89年、シングル「YOU’RE SO UNIQUE」でレコードデビューし、ブラジル・レコーディングを中心としたアルバムを精力的にリリース。そのクオリティの高さと親しみやすさで人気を集めました。その後も、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ドナートなどの第一線ボサ・ノヴァ・アーティストとの共演や、ボサ・ノヴァに留まらない幅広い音楽にアプローチした作品を次々とリリースし、国際的スケールで活動を続けています。

小野リサ

オフコース

オフコース

横浜の高校生だった小田和正(おだ かずまさ)、鈴木康博(すずき やすひろ)らが結成したアマチュア・フォーク・グループが母体。彼らは別々の大学に進んでもグループ活動を続け、1969年の「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」の全国大会2位となったのをきっかけに、70年4月「群衆の中で」でデビュー。最初は3人編成でしたが、71年に地主道夫(じぬし みちお)が脱退。その後は小田、鈴木のデュオ・グループとして活動することになりますが、76年頃からドラム、ベースなどサポートメンバーを加えて多彩な音楽性を追求するようになります。79年、バックメンバーだった大間仁世(おおま ひとせ d)、清水 仁(しみず ひとし b)、松尾一彦(まつお かずひこ g)が正式加入し、オフコースは5人編成のバンドとなり、同じ年の「さよなら」をきっかけにブレイクします。しかし、82年、オリジナルメンバーの鈴木康博の脱退で活動を休止。その後、84年に残った4人で活動を再開し、89年に解散するまでトップグループとして活躍を続けました。

オフコース

オメガトライブ

オメガトライブ

オメガトライブ(おめがとらいぶ) 杉山清貴(すぎやまきよたか)を中心としたアマチュアバンド、きゅうてぃぱんちょすが「ポピュラーソングコンテスト」で入賞したことをきっかけに、杉山清貴 & オメガトライブとして83年に「SUMMER SUSPICION」でデビュー。メンバーは杉山(vo)、高島信二(たかしましんじ g)、吉田健二(よしだけんじ g)、西原俊次(にしはらしんじ kb)、大島孝夫(おおしまたかお b)、廣石恵一(ひろいしけいいち d)。「ふたりの夏物語」などのヒットで脚光を浴びますが、85年に解散。86年、メンバーだった高島、西原とカルロス・トシキ(かるろすとしき vo)、黒川照家(くろかわみつや g)で1986オメガトライブとして「君は1000%」をリリースし、ヒットさせます。88年に黒川が脱退したのをきっかけに、カルロス・トシキ & オメガトライブと改名。「アクアマリンのままでいて」などをヒットさせましたが、91年に解散。

オメガトライブ

オリジナル・ラブ

オリジナルラブ

オリジナル・ラブ 田島貴男(たじま たかお) 1966.4.24.東京都出身。1985年、田島を中心に前身となる「レッドカーテン」を結成。87年には「オリジナル・ラヴ」に改名し、91年にシングル「DEEP FRENCH KISS」でメジャーデビューしました。同年発表のファーストアルバム『LOVE!LOVE!&LOVE!』が日本レコード大賞最優秀アルバム・ニューアーティスト賞を受賞。ドラマ主題歌に起用されたシングル「接吻 kiss」や「プライマル」がヒットし、人気アーティストとしての座を獲得しました。現在は田島貴男のソロユニットとして継続しており、「ボラーレ!(Nel Blu,Dipinto Di Blu)」や「なごり雪」などをカヴァーしたCM音楽制作やアルバムプロデュースなど、その活動は多岐に渡っています。

オリジナル・ラブ

海援隊

カイエンタイ

海援隊(かいえんたい) 1971年に福岡で結成されたフォークグループ。メンバーは武田鉄矢(たけだ てつや)、中牟田俊男(なかむた としお)、千葉和臣(ちば かずおみ)。72年に上京し、アルバム『海援隊がゆく』でレコードデビュー。73年に「母に捧げるバラード」が大ヒット、79年にはテレビドラマ『3年B組金八先生』の主題歌「贈る言葉」でも人気を集めました。82年に解散しましたが、94年に再結成されました。

海援隊

甲斐バンド

カイバンド

甲斐バンド(かいばんど) 1974年、地元福岡でアマチュア活動をしていた甲斐(かい)よしひろを中心に結成されました。メンバーは甲斐よしひろ(vo)、大森信和(おおもり のぶかず g)、長岡和弘(ながおか かずひろ b)、松藤英男(まつふじ ひでお d)。同年、シングル「バス通り」でレコードデビュー。「裏切りの街角」「HERO(ヒーローになる時、それは今)」などをヒットさせるとともに、箱根・芦ノ湖畔、大阪・花園ラグビー場、東京・新宿西口都有地での野外イベント、両国国技館のこけら落としライヴなど、多彩なステージでのライヴを行い、話題を呼びました。86年、解散。

甲斐バンド

甲斐よしひろ

カイヨシヒロ

甲斐よしひろ(かいよしひろ) 1953.4.7.福岡県出身。早くから福岡を中心に活動し、74年には文化放送主催「第三回ハッピー・フォーク・コンテスト」に「ポップコーンをほおばって」で優勝。同年、甲斐バンドを結成、本格的にバンド活動に入りました。甲斐バンド在籍中の78年、ファースト・ソロ・アルバム『翼あるもの』を発表していますが、86年の甲斐バンド解散後、本格的にソロ活動を開始。87年にはソロ・アルバム『ストレート・ライフ』をリリース。その後、ソロ活動、KAI FIVEとしてのバンド活動、さらに甲斐バンドリユニオンなど多角的な活動を展開しています。

甲斐よしひろ

加川良

カガワリョウ

加川 良(かがわ りょう) 1947.11.21.滋賀県出身。学生時代に、あるGSのボーカリストとしてセミプロ活動。URCレコードを出していたアート音楽出版に就職していた70年、第二回全日本フォークジャンボリーにて自作の「教訓Ⅰ」を飛び入りで歌い、ステージデビュー。翌71年にアルバム『教訓』をリリースしました。76年には東京キッドブラザーズのミュージカル『十月は黄昏の国』に出演し、音楽も担当。その後も、コンスタントにシンガー・ソングライターとしての活動を続けています。

加川良

かぐや姫

カグヤヒメ

かぐや姫(かぐやひめ) 1970年に南(みなみ)こうせつ、大島三平(おおしま さんぺい)、森 進一郎(もり しんいちろう)によって第一次かぐや姫を結成。シングル「酔いどれかぐや姫」などをリリースしますが、大きな成功を収めることはできず、71年には南こうせつ、伊勢正三(いせ しょうぞう)、山田パンダ(やまだ ぱんだ)による第二次かぐや姫が誕生しました。第二次かぐや姫は「神田川」「妹」などを大ヒットさせ、フォークシーンをリードする人気グループとなりますが、75年4月に解散。しかし、同年8月には静岡県のつま恋多目的広場で「吉田拓郎・かぐや姫 つま恋コンサート」が開催されました。その後、78年、99年など何度か期間限定で再結成されています。

かぐや姫

カシオペア

カシオペア

カシオペア(かしおぺあ)  1976年に、野呂一生(のろいっせい g)、櫻井哲夫(さくらいてつお b)、小池重彦(こいけしげひこ kb)、鈴木 徹(すずきとおる d)でインストゥルメンタル・グループとして結成されました。同年のバンドコンテスト「East West’76」に出場して野呂がベストギタリスト賞を受賞。翌年の「East West’77」では優秀グループ賞と野呂がベストギタリスト賞を受賞しました。その後、79年、小池、鈴木が向谷 実(むかいやみのる kb)、佐々木隆(ささきたかし d)に替わって、79年にアルバム『CASIOPEA』でデビュー。 その後、ドラムが神保 彰(じんぼあきら)となり、日本のフュージョンシーンをリードするグループとして国際的に活躍します。90年代以降メンバー交替をしながら活動が続いていきましたが、2006年に活動休止。しかし、2012年に、野呂、鳴瀬喜博(なるせよしひろ b)、大高清美(おおたかきよみ kb)、さらにサポートメンバーとして神保が加わる形で、カシオペア3rdとして活動を再開しています。

カシオペア

かしぶち哲郎

カシブチテツロウ

1950年11月9日生まれ、栃木県出身のミュージシャン。本名は橿渕哲郎。幼少よりクラシックやポップスに親しみ、高校からは楽曲制作やドラマーとしてバンド活動を開始。71年、鈴木慶一らと「はちみつぱい」を結成。75年に「ムーンライダーズ」を結成し、35年にわたって作品制作やライヴ活動を展開。80年代以降は作詞、作曲、アレンジ、プロデュースを中心に活躍。CM、映画の音楽も担当。特に『釣りバカ日誌』やアニメ『機動戦士ガンダム』など、多くのサントラを手掛けた。ソロとしても『リラのホテル』をはじめ、意欲的に作品を発表。CM出演も多く果たした。2013年12月17日、食道癌のため死去。享年63歳。

かしぶち哲郎

かせきさいだぁ

カセキサイダー

かせきさいだぁ  1968.9.26、静岡県生まれ。90年、3人組ヒップホップグループ、TONEPAYSを結成して活動していましたが、93年に解散。94年にひとりでかせきさいだぁΞとして活動を始めました。95年、インディーズからアルバム『かせきさいだぁΞ』をリリースし、翌96年、シングル「さいだぁぶるーす」でメジャーデビュー。98年にアルバム『SKYNUTS』をリリース後は、ホフディランのワタナベイビーとのユニット、Baby & CyderΞ、ヒックスヴィルの小暮晋也とのユニット、TOTEM ROCKなどで活動。2009年にソロプロジェクト、かせきさいだぁΞ & HUGTONES(松本光由 g、龍山一平 kb、勝原大策 b、なかじまはじめ d、大山Ervin per)を結成して活動を再開しました。現在は、かせきさいだぁΞではなく、かせきさいだぁと表記しています。

かせきさいだぁ

カゼ

風(かぜ) 1975年、かぐや姫を解散した伊勢正三(いせ しょうぞう)と「猫」の大久保一久(おおくぼ かずひさ)が結成したデュオグループ。かぐや姫でもレコーディングしていた伊勢正三作の「22才の別れ」でデビューしました。フォーク色の強いグループでしたが、次第に洗練されたポップ感覚を打ち出すようになっていきます。79年に解散。

風

加藤和彦

カトウカズヒコ

1947年3月21日、京都府出身。学生時代に北山修(きたやま おさむ)らとザ・フォーク・クルセダーズを結成し、「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットを記録しました。ザ・フォーク・クルセダーズ解散後、69年4月にソロ・アーティストとして「僕のおもちゃ箱」でシングル・デビュー、同年12月1日にファースト・アルバム『ぼくのそばにおいでよ』を発表。71年から約五年間にわたりサディスティック・ミカ・バンドで活動しましたが、76年からソロ活動を再スタートさせ、同年12月に『それから先のことは・・・』を発表。その後、『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』などの佳作を発表し、日本のシーンをリードしていきました。2009年10月16日、死去。

加藤和彦

加藤登紀子

カトウトキコ

1943年12月27日、旧満州ハルビン生まれ、京都育ちのシンガー・ソングライター/女優。愛称は“おときさん”。65年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、歌手デビュー。66年に「赤い風船」でレコード大賞新人賞、69年に「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞。以降、数多くのヒット曲やアルバムを発表。国内はもちろん、カーネギーホールをはじめ世界各地でコンサートを実施し、92年には仏政府からシュバリエ勲章を受章。また、『居酒屋兆治』やアニメ映画『紅の豚』など女優/声優や陶芸などの芸術活動、執筆活動ほかでも才能を発揮。地球環境問題へも積極的に取り組んでいる。

加藤登紀子

門あさ美

カドアサミ

1955年10月17日生まれ。名古屋市出身。ヤマハのポプコン出身。1979年「ファッシネイション」でレコード・デビュー。88年までの活動期間中、コンサート活動をほとんどせず、TV出演もほとんどせずにベールに包まれた存在だった。
しっとりとしたウェットな歌唱スタイルが魅力。

門あさ美

角松敏生

カドマツトシキ

角松敏生(かどまつ としき)  1960.8.12.東京都出身。内外のロック&ポップ・ミュージックの影響を受け、バンド活動をスタート。大学在学中に制作したデモテープがきっかけになり、81年に「YOKOHAMA Twilight Time」、アルバム『Sea Breeze』でデビュー。その後、シンガー・ソングライターとしての活動とともに、プロデューサーとしても杏里など多くの作品を手掛けるようになります。93~97年にかけて、自らのアーティスト活動を凍結し、プロデュース活動に専念していましたが、98年にアーティスト活動を再開。意欲的なサウンドアプローチとストイックな内面表現を軸にした意欲的作品を発表しています。

角松敏生

金子マリ & バックスバニー

カネコマリアンドバックスバニー

金子マリ&バックスバニー ソウルフルなヴォーカルで“下北沢のジャニス(・ジョプリン)”とも呼ばれたヴォーカリスト、金子(かねこ)マリがスモーキー・メディスンを解散して、74年に結成したバンド。メンバーは金子マリ(vo)、永井充男(ながい みつお g)、難波弘之(なんば ひろゆき kb)、鳴瀬喜博(なるせ よしひろ b)、橋本英晴(はしもと ひではる d)。76年に「あるとき」でレコードデビュー。高い演奏力に裏打ちされた圧倒的なライヴで人気を集めました。

金子マリ & バックスバニー

カヒミ・カリィ

カヒミカリィ

KAHIMI KARIE(かひみ かりい) 1968.3.15、沖縄生まれ。91年にオムニバスアルバム『BLOW UP』にKAHIMI KARIEとして参加し、95年にシングル「Make Always’s Diary」で本格的にデビュー。洗練されたポップセンスあふれる楽曲で注目され、98年にはアメリカでもアルバムがリリースされ、アメリカツアーも2度行っています。海外アーティストとのコラボレーションも多く、彼女自身も96年から住まいをパリに移して活動しています。

カヒミ・カリィ

かまやつひろし

カマヤツヒロシ

かまやつひろし 1939.1.12.東京都出身。早くから歌手として活動し、カントリー、ロックンロール歌手として、日劇ウエスタンカーニバルや日活アクション映画に出演。63年にはザ・スパイダースに参加し、デビュー曲「フリフリ」を作詞・作曲しました。ザ・スパイダースには71年の解散まで在籍していましたが、70年にソロアルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』を発表。75年には吉田拓郎が書いた「我が良き友よ」をヒットさせるなど、世代を越えた才能豊かなアーティストたちと積極的に交流しながら活動を続けています。

かまやつひろし

紙ふうせん

カミフウセン

紙ふうせん(かみふうせん) 1974年、赤い鳥のメンバーである後藤悦次郎と平山泰代がグループ内ユニット(紙ふうせん)としてシングル「いかつり唄」とアルバム『またふたりになったね』を発表。74年、赤い鳥の解散と前後して後藤と平山は結婚。ふたりは紙風船として活動をはじめ、75年にシングル「ささぶね」で正式デビュー。77年に出した「冬が来る前に」が大ヒットし脚光を浴びました。その後も、日本民謡から洋楽テイストの楽曲まで、幅広い音楽性を打ち出しながら活動を続けています。

紙ふうせん

亀井登志夫

カメイトシオ

亀井登志夫(かめい としお) 大学在学中からバンド「トラスト」を結成、プロ活動をスタート。1970年代後半からは作詞家の康珍化と多くの活動をともにし、作曲家としての地位を確立。88年にはソロアルバムを発表し、シンガー・亀井登志夫の魅力を披露しました。90年代に入ると妻である亀井知永子とのユニット「YONGEN」として活動を始め、音楽とアートのコラボレーションを展開。2013年にはソングライター、ヴォーカリスト、ヴァイオリニストとしての音楽活動の集大成とも言えるベストアルバムをリリースしました。

亀井登志夫

加山雄三

カヤマユウゾウ

加山雄三(かやま ゆうぞう) 1937.4.11.神奈川県出身。両親はともに俳優の上原 謙と小桜葉子。早くからクラシックピアノを学ぶなどして、音楽に親しんでいました。60年、俳優として映画デビュー。61年、主演映画『大学の若大将』にあわせて「夜の太陽」でレコードデビューしますが、65年のシングル「恋は紅いバラ」からは、「弾 厚作」名義で自ら作曲したオリジナル曲をリリース。「君といつまでも」「お嫁においで」「旅人よ」など多くのヒット曲を生み出していきました。70年代後半になると、日常のなかの海への想いを託した楽曲や、スタンダード曲のカバーなど、大人の感覚をもったポップミュージックにアプローチするなどの新しい境地を見せるようになります。さらに、谷村新司と「サライ」を共作するなど、世代を超えた音楽活動を続けています。

加山雄三

辛島美登里

カラシマミドリ

辛島美登里(からしまみどり) 鹿児島県出身。大学卒業後、ソングライターとして活動をはじめ、永井真理子など多くのシンガーに作品を提供していましたが、89年に自らもシングル「時間旅行」でシンガー・ソングライターとしてデビューしました。90年11月、「サイレント・イヴ」がテレビドラマ『クリスマス・イブ』の主題歌として大ヒット。その後もコンスタントに作品をリリースするとともに、ライヴ活動も積極的に展開。オーケストラと共演するクリスマスコンサートや、絵本とコラボレートしたライヴなど、既成の形にとらわれない表現のスタイルを切り開きながら、リスナーとのコミュニケーションを重ねています。

辛島美登里

カルメン・マキ & OZ

カルメンマキアンドオズ

カルメン・マキ & OZ(おず) 1969年に「時には母のない子のように」でレコードデビューしたカルメン・マキは、フォーク色の強いシンガーとして活動していましたが、70年代に入るとジャニス・ジョプリン等の影響を受け、クリエイションと共演するなど、ロック・ヴォーカリストを目指します。そして、72年に春日博文(かすが ひろふみ g)、鳴瀬喜博(なるせ よしひろ b)、樋口晶之(ひぐち まさゆき d)とカルメン・マキ & OZを結成。75年にリリースしたアルバム『カルメン・マキ & OZ』が、ロック・アルバムとして高い評価を受けます。その後、メンバーチェンジを経て、77年に解散しました。

カルメン・マキ & OZ

川村かおり

カワムラカオリ

川村カオリ(かわむらかおり) 1971.1.23、モスクワに生まれ、11歳で帰国。88年、17歳の時に辻仁成プロデュースによりシングル「ZOO」でレコードデビュー。「神様が降りてくる夜」「翼をください」などをヒットさせますが、93年に活動を休止して渡米。95年に活動を再開後は、個人ユニットSORROWを結成してインディーズからCDをリリースするなど、新たな動きを展開していきます。その後、乳がんが発見されますが、闘病生活を続けながら音楽活動を維持していきました。2009年、渋谷公会堂で行われたライヴの2か月後に逝去。

川村かおり

KAN

カン

KAN(かん) 1962.9.24.福岡県出身。1987年にアルバム『テレビの中に』でデビュー。90年に発表したシングル「愛は勝つ」が200万枚を超える大ヒットとなり、91年に日本レコード大賞を受賞。同年の紅白歌合戦に初出場を果たします。2002年に渡仏。パリに拠点を置きながら、音楽学校の「エコール・ノルマル」でクラシックピアノを基礎から習得し、04年に帰国。ソロ以外にも、桜井和寿(Mr.Children)との「パイロットとスチュワーデス」、杉山清貴、スターダストレビューとの「SSK ALL STARS」などさまざまなユニット活動を展開しています。

KAN

カーネーション

カーネーション

カーネーション 東京の美大生を中心とした耳鼻咽喉科というバンドを母体に1983年に結成。84年にシングル「夜の煙突」でインディーズデビューしました。当初のメンバーは直枝政広(vo、g)、馬田祐次(vo、b)、徳永雅之(d)、谷野晃一(kb)、小汲哲郎(sax)らでしたが、メンバーチェンジをしながら活動を展開。89年に森高千里が「夜の煙突」をカヴァーして話題になり、95年には「It’s a Beautiful Day」をヒットさせています。現在の正式メンバーは、直枝、大田譲(vo、b)の二人。

カーネーション
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